インターネット革命以降、人類の本能的制裁欲求は加速し続けている。ときには不謹慎狩りや自粛狩り、言葉狩りといった◯◯狩りと称して、顔の見えないだれかが、顔の見えるだれかを、正義を楯に取り、当事者に代わって非難している。自分にかかわることではないにもかかわらず?人間とは元来、制裁そのものに快感を得る生き物らしい。だから、常日頃だれかを裁きたいし、だれかが裁かれていてほしい。(社会秩序形成において制裁が必要とされたことはひとまず置いておく。)日々の理由なき鬱屈や自尊心の歪みを解消するためのカタルシス。
Third party punishment(非当事者による制裁)はSocial justice warrior(社会的正義者)から祝福を受けたのだ。
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「戦後最大の危機」に呼応する「打ち勝つ」や「乗り越える」「負けない」などの扇動的な言葉の羅列が、わたし(たち)の心に重くのしかかり、今にも押し潰れそうだ。命というものが、社会というものが、かろうじて存在していたという奇跡の連なりである過去と現在について改めて認識している。こんなに大切なことを、わたしはすぐに忘れてしまう。まだ10年と経たない近い過去で、同じように感じたはずなのに。こうして国や社会や世界を揺るがす危機は繰り返し起こり続けていく。そもそも危機ってなんなんだ?
ウォルター・シャイデルは著書「暴力と不平等の人類史」の中で、平等は破壊の後にやってくると述べていて、その破壊は4つに分類することができる。「戦争」「革命」「崩壊」そして「疫病」。正直なところ、どの4つも現代の日本社会において起こり得ないであろうと思っていた。このままずっと資本主義社会は続いていくと思っていたし、富める者はより富み、貧しき者はより貧しくなるのだと当たり前に考えていた。だから、できるだけ資本経済とは遠いところで生きていたいと思って、その結果が今の暮らしにつながっている。 わたしは今日も本を読み、料理をし、畑で芽吹きはじめた新たな生命に目を凝らし、自転車に乗って太極拳教室に行く。ときどき恋人に腹を立てたり、不健康だと分かっていつつもお酒を飲んで、お菓子を食べ、映画を観たりして夜更かしをする。いまだ収入の目処は立たず、やっているはずだったせめてもの経済活動は手のひらからこぼれ落ちたまま、それでも(そうして)日々は続いていく。 生きることの困難に視座を持つとき、心にも感触があることを忘れないでいたい。 |