<![CDATA[唐津ゲストハウス 鳩麦荘 - くらし]]>Sun, 19 Jul 2020 10:43:50 +0900Weebly<![CDATA[生きている人が死について考える]]>Sat, 18 Jul 2020 23:39:48 GMThttp://sagaguesthouse.com/kurachi/6882161同世代の訃報。死ぬこと、死を選ぶこと。生きること、生を選ぶこと。死と生(もしくは生と死)は同列に語られうるのか。その繰り返し。今日もまた、じょうずに人の死を手放せずにいる。4月6日のツイートと同じ。検索窓に「自殺 倫理観」と打ち込み、拾った羅列をもとに「ウィトゲンシュタイン 自殺」と打ち込む。

"Wenn der Selbstmord erlaubt ist, dann ist alles erlaubt. 
Wenn etwas nicht erlaubt ist, dann ist der Selbstmord nicht erlaubt. 
Dies wirft ein Licht auf das Wesen der Ethik. 
Denn der Selbstmord ist sozusagen die elementare Sunde. 
Und wenn man ihn untersucht, so ist es, wie wenn man den Quecksilberdampf untersucht, 
um das Wesen der Dampfe zu erfassen. 
Oder ist nicht auch der Selbstmord an sich weder gut noch boese."


彼は著書『論理哲学論考』の中で「死は人生の出来事ではない。人は死を体験しない」のであり、したがって「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と述べている。ネットニュースを見るのが怖い。この空間にテレビがなくて、ほんとうによかった。ずっと気になっていた文化誌「庭」の『庭vol.3.0 生きている人が死について考える』をポチる。到着まで10日ほどかかるとのこと。無意識のうちでそれまでわたしは生きているつもりでいて、生きるということは結局そういった微分の繰り返しなのではないかと思った。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。 着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい 縞目 ( しまめ ) が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
『葉』太宰治

わたしは今純然と生きていて、それは生きていることに違いなく、だから「生きている人が死について考える」。いつまで生きている人の側なのか、おそらく死ぬまでだろう。死んでしまっては残ったもの以外残らない(残せない)。生物で唯一、人間だけが持つ能力である「(自身もいつか)死ぬことについての認識」が「(自らにいつでも)死ぬことも可能」であるといった選択の余地に歪んでしまっている事実が悲しい。
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<![CDATA[Hello,world!]]>Thu, 16 Jul 2020 04:22:51 GMThttp://sagaguesthouse.com/kurachi/helloworld声の大きいひとを好きになれません。あなたにとって初めての文字は何ですか。

​Google検索で「からつげすとはうす」と入力したら最初に「つげ義春」のWikipediaページが出てきて、笑った。そもそもどうして「からつげすとはうす」と打ったのかというと、ホームページを確認したかったからで、怠惰にも変換する手間を惜しんだ結果の「あら奇遇ですねえ」。昨年はnoteをよく書いていて(これはいろいろな事情でやめた)、今年はホームページブログをやってみようと思っていたはずなのにまだ2記事しか投稿していない。それなりに省みたところ、前回の記事「
だれが言葉を殺すのか。THIRD PARTY PUNISHMENTについての論考(1)」でわたしがあまりにも殺伐と文字を書いていたからで、それに続く言葉を見つけられないまま(自分で紡ぎはじめた言葉なのに!)過ごしている。振り返れば悲しみに暮れ、怒りに狂った数ヶ月だった。周囲の時間が動きはじめたように、わたしの時間もまた、少しずつ動きはじめている。手のひらからこぼれ落ちていくものをつなぎとめることは難しい。だからこぼれ落ちそうにないものだけを見つめ続けていこうと思う。絶対に、わたしから失われないものだけを。それが今のわたしの答えです。]]>
<![CDATA[だれが言葉を殺すのか。Third party punishmentについての論考(1)]]>Sat, 18 Apr 2020 05:39:03 GMThttp://sagaguesthouse.com/kurachi/third-party-punishment1インターネット革命以降、人類の本能的制裁欲求は加速し続けている。ときには不謹慎狩りや自粛狩り、言葉狩りといった◯◯狩りと称して、顔の見えないだれかが、顔の見えるだれかを、正義を楯に取り、当事者に代わって非難している。自分にかかわることではないにもかかわらず?人間とは元来、制裁そのものに快感を得る生き物らしい。だから、常日頃だれかを裁きたいし、だれかが裁かれていてほしい。(社会秩序形成において制裁が必要とされたことはひとまず置いておく。)日々の理由なき鬱屈や自尊心の歪みを解消するためのカタルシス。
​Third party punishment(非当事者による制裁)はSocial justice warrior(社会的正義者)から祝福を受けたのだ。
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<![CDATA[心にも感触があることを忘れないでいたい]]>Tue, 07 Apr 2020 12:49:14 GMThttp://sagaguesthouse.com/kurachi/2358451「戦後最大の危機」に呼応する「打ち勝つ」や「乗り越える」「負けない」などの扇動的な言葉の羅列が、わたし(たち)の心に重くのしかかり、今にも押し潰れそうだ。命というものが、社会というものが、かろうじて存在していたという奇跡の連なりである過去と現在について改めて認識している。こんなに大切なことを、わたしはすぐに忘れてしまう。まだ10年と経たない近い過去で、同じように感じたはずなのに。こうして国や社会や世界を揺るがす危機は繰り返し起こり続けていく。そもそも危機ってなんなんだ?
ウォルター・シャイデルは著書「暴力と不平等の人類史」の中で、平等は破壊の後にやってくると述べていて、その破壊は4つに分類することができる。「戦争」「革命」「崩壊」そして「疫病」。正直なところ、どの4つも現代の日本社会において起こり得ないであろうと思っていた。このままずっと資本主義社会は続いていくと思っていたし、富める者はより富み、貧しき者はより貧しくなるのだと当たり前に考えていた。だから、できるだけ資本経済とは遠いところで生きていたいと思って、その結果が今の暮らしにつながっている。
わたしは今日も本を読み、料理をし、畑で芽吹きはじめた新たな生命に目を凝らし、自転車に乗って太極拳教室に行く。ときどき恋人に腹を立てたり、不健康だと分かっていつつもお酒を飲んで、お菓子を食べ、映画を観たりして夜更かしをする。いまだ収入の目処は立たず、やっているはずだったせめてもの経済活動は手のひらからこぼれ落ちたまま、それでも(そうして)日々は続いていく。
生きることの困難に視座を持つとき、心にも感触があることを忘れないでいたい。]]>
<![CDATA[変わりゆくまちに思うこと]]>Fri, 23 Feb 2018 02:20:01 GMThttp://sagaguesthouse.com/kurachi/3754569
わたしはいつも、
何かのことばかりを話してしまいがちだけれど

なんだか無性に
だれかに
読んでくれているあなたに
今わたしが思っていることを伝えたくて

こんなふうに
ぽつり、ぽつりと話し始めている。


わたしが暮らしているこのまちは
しなやかで
したたかで
それでいて
滔々と月日が流れる
静かに息づく小さな城下町。


時折
だれかにとっての大切な何かが創られ、出現し、
また
だれかにとっての大切な何かが壊され、消失する。

ひとが生まれ、死んでいくことと同じように。


ずっと自問自答していた。



変化は暴力であるのか。


彼方此方で聞こえてくる、
「まちづくり」の一声。


わたしは独り言ちで呟く。

"まちづくりという優しい名のついた(或いは意図的に置き換えられた)再開発"


わたしは思い考える。

“まちづくりの本当の言葉の意味は生活"


まちで生活するということが
まちと生きるという行為そのものが
まちをつくるということ。



時代とともにひとは変わる。
時代とともにまちも変わる。

でも生活によってもたらされた恣意的な変化は
決して暴力的なものではなく
もっともっと優しく、穏やかなもの。

これこそが
まち(の歴史)をつくるということ。


わたしも
唐津に住んでいるあなたも
唐津を旅しているあなたも

「まちづくり」を言葉にするあなただって

今、この瞬間に
まち(の歴史)をつくっている。


まちづくりは日常の中で紡がれる。
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