唐津ゲストハウス 鳩麦荘
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霧を掴んで霞を食う

15/2/2021

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わたしは怒っていた。そう気が付くまでに随分と時間がかかってしまった。大人になるにつれて怒らない癖がますますつき、経験上怒っても仕方がないとか、疲れるだけだとかネガティブなイメージのせいで、だから極力怒ることを避けるという癖。大体「へえ」とか「ふうん」といった返答で受け流し、心中は呆れているか軽蔑しているかのどちらかだ。でもやっぱりあの時わたしは怒っていたのだ。という出来事が数日前にあった。怒りを表現していないから、こだまのようにわたしの内面にへばりついて、消えない。結局のところ、怒るという感情を心が握った瞬間に、表現の有無に拘らず感情は昂っているに違いない。自分にもそんな節があるとわかっていつつも、他者の無神経さや思慮の浅さを感じるときがある。そんなとき、ひとはどんなふうに心を処理するのだろう。そもそも真に無神経なひとは自分にもそんな節がある、などとは思わないのではないか、というのは傲慢なことか。自分の浅ましさにうんざりする。全く、わたしのことを恵まれてないとラベリングすることは失礼千万。そうやって他者を自分の都合で解釈することもまた等しく、浅ましい考えだと思う。わたしは短い生涯の中で、生きとし生けるものをはじめとするあらゆる万物を十全に理解する、ということは限りなく不可能なことだと考えている。自分自身のことですらままならない混沌な日々の中で、霧を掴むような気持ちで、霞を食べながらも精一杯どうにか毎日を生きている。
ブッダは自己を形成する要素を五蘊(ごうん)という「色・受・想・行・識」5つの要素で考えたという。「色」=外的情報があり、「受」=感覚があり、「想」=意識があり、「行」=意欲があり、「識」=知識・経験に基づく判断がある。これは脳でそれぞれ「後頭葉・海馬・左前頭葉・頭頂葉・右前頭葉」にあたる。また『複雑系理論』でウォルター・フリーマンは、情報がこの5つを竜巻のように高速で行き来することで大域的アトラクターが成立し、無意識が有意識へと変わると唱えている。そして「受」を静める行為こそが禅における座禅修行なのだという。
ふと、茨木のり子の「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」という叱咤の言葉が思い出される。みずから水やりを怠っておいて、ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにしていた自分にはたと気付かされた。
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